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當寺について

當寺縁起- 万代山 大日寺の成り立ち -

平安時代後期
嘉応元年~承安二年

平安時代後期の嘉応元年(1169年)。
平清盛公が、和田岬に僧侶1,000人を集め、大輪田泊と瀬戸内航路の海上安全のために、萬灯会を行い法華経を転読しました。

その際の、灯篭堂として創建されたのが當寺の始まりです。
その年から春と秋の年2回、千僧供養が行われていました。
承安二年(1172年)の春には、後白河法皇が行幸され、1,000人の僧侶と読経しました。
この時に西行法師も参列しており、
“きえぬべき法のひかりの灯(ともしび)をかかぐる 和田の御崎なりけり”
と詠っております。

治承四年

和田京を造営の時、清盛公がここに一字金輪仏頂尊(大日如来)を祀りました。

安徳天皇の玉帯安穏を祈り、また阿弥陀如来を祀り平家一門の極楽往生を願い、万代山安養寺と号(ごう)し勅(ちょく)を賜り、御願所となりました。

治承四年

鎌倉時代~江戸時代
弘安八年~元和年間

その後、源平の戦火で、堂塔伽藍はすべて焼失しましたが、平家滅亡の後に平家一門の菩提を弔うために、建礼門院の発願で諸方より寄進を受け再建されました。

鎌倉時代の弘安八年(1285年)8月に西大寺の興正菩薩叡尊が来山し、菩薩戒を972人に授け、遊女1,700余人に持斎戒を授けられました。

江戸時代の元和年間(1615~1623年)和田岬より西尻池村の当地に移りました。
万治年間尼崎藩主青山幸利候が當寺に深く帰依され、候の死後、位牌が青山家より納められました。
また、時代の変遷により無住となり、元禄より後には西尻池村の大日堂と呼ばれていました。
本尊、什物、古文書等はすべて紛失し、本堂と青山候の位牌、鎌倉時代頃の作と伝えられている町石のみ残りました。

大正末期~現在

大正末期に純真和上が入寺され、名刹が廃寺の憂き目に遭っているのを嘆き、大日堂を和上の師の寺である播州朝日山大日寺の別院として、自ら中興開山第一世となり大日寺と寺名を改め再建されました。

太平洋戦争中昭和十九年の神戸空襲でも本堂は残り、被災者の救護所として利用されました。

昭和五十一年に中興第二世証純和上が現在の本堂を建立、現住が朝日山別院を返上し、旧に復して万代山と山号を改め今に至っております。

大正末期~現在

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